カレイドスコープ

君がみた世界に果てはなく、これこそが楽園だ

映画『ピンクとグレー』について原作者担の私が想うこと。

自担の書いた小説が映像化して、原作者としてエンドロールに名前が載せられる。

そんな贅沢、シゲ担じゃないと味わえない。シゲ担やっててよかった。シゲを好きでよかった。心からそう思った1月9日から1ヵ月以上たった今、映画『ピンクとグレー』について私が感じたことを書きたいと思う。若干の今更感はあるが、地元の映画館でピングレの公開が2月13日からだったのだから仕方ない。そう、私が公開当日に「原作:加藤シゲアキ」という文字を見たのはテレビの中で、作品名は『傘をもたない蟻たちは』だった。悔しい。田舎め。ちなみに映画は2回観ました。1回目は先月他県に行った際に、2回目は地元公開翌日に裕翔(の顔)推し母を連れて。ええ、バレンタインに母と重い映画観てやりましたよ。ご飯屋さんの店員さんが見事に若い子いなかったちくしょう。

 

※ここから先は映画及び原作小説『ピンクとグレー』、スピンオフ作品『だいじなもの』の内容に抵触しています。また、内容に関して否定的な発言も含むため、気分を害される可能性もございます。閲覧は自己責任でお願いします。

 

 

 

 

宣伝で散々謳われていた「62分後の衝撃」と柳楽くんの役所は、原作から予想していた通りだったので特に驚くこともなく。後半の展開は(当然予想など出来るわけもないので)びっくりだったなぁというところ。

これはあくまで私の好みの問題なのだけど、好きか嫌いかで言うと正直嫌いな映画でした。

映像化するにあたっての改変は仕方ないことなのはわかっているし、基本的に「原作は原作、映画は映画」というスタンスで観られるタイプなんだけど、この作品に関してはどうしたって悪い意味で“原作厨”になってしまう。

嫌いだったと先述したけど、撮り方は面白いと思ったし、ああいう暴力的なまでに感情をむき出しにした話はむしろ好きな部類に入るから、原作を知らなければ、原作にさして思い入れがなければかなり好きな映画だったかもしれない。2回観たことで感情の整理ができて受け入れられる部分も増えたし、素直によかったなと思う部分もあるので、まずはそこからまとめたい。

 

ぶっちゃけキャストに対する不安も大きかったのだけど、そこに関しては完全に杞憂でした。申し訳ない。

・裕翔の演技をほとんど観たことがなかったから勝手に心配していたけど、アイドルの中島裕翔じゃなかった。しっかり俳優さんだった。美しく、確かにごっちとして(前半は)そこに存在していた。菅田くん演じる前半のりばちゃんと裕翔演じる後半のりばちゃんが重なるところもあって、素直にすごいなぁと思った。あと歌もすごくよかった。裕翔ってあんなに歌える子だったんだ…

・菅田くんはまさに怪演。夏帆と合わせて振り幅がすごい。後半の振り切った演技がうわあ~菅田将暉~って感じでとても好き。キレたりばちゃんに殴られて血塗れで笑う成瀬とか最高の菅田。菅田将暉でよかったアワードぶっちぎり1位。

夏帆もみんエスとか観てたし、ただの清純派から抜け出したのは知ってたけど、本当にいい女優さんになったなぁ…何目線だよって話だけど。りばちゃん(菅田)に押し倒されたサリー(夏帆)の脚が綺麗すぎてちょうこうふんしました。

・柳楽くんのラスボス感*1よ。後半しか出てこない上に回想的に裕翔のごっちをなぞっていただけだったから、途中までは柳楽優弥の無駄遣い…と思っていたけど、ラストシーンであれだけの存在感を醸し出しているのはさすがとしか言えない。

・あと唯が小林涼子さんだったのは完全に勝訴。これは単に私にとって小林さんのお顔がドタイプだというだけの話なのだけど、凛としていて儚い感じとか、美しくてとてもよかった…すきです小林さん…。(ただ小林さんと柳楽くんは絶対に同じ親から生まれない顔)

 

それからファレノプシスに曲がついたことは単純に感慨深かった。シゲアキさんの頭の中の曲はどんなだったんだろう。近いものはあったんだろうか。全英詩になっていたけど、素敵な曲でしたファレノプシス。よかった。

 

 

さて。ここからは私が疑問に思った点や、“原作厨”として受け入れがたかった点を述べていきます。

まず、渋谷サーガ第一弾として出版されたこの作品から、渋谷という舞台を取り去っていること。正確に言うと確かに渋谷で物語は展開されているのだけど、正直地方民にはわかりづらい。渋谷だと明言されているのはファレノプシスのビルの話と、2人がスカウトされた時だけ。学校に通っている設定がないから遊んでいただけともとれてしまう。デュポンのライターも、そこを待ち合わせ場所にしていないために2人の憧れだったことが薄れていて、ある程度地位のある人のステータスだというだけの存在になってしまったように感じた。それこそライターの広告がごっちが表紙の雑誌の広告に変わるとか、渋谷という街だからこそ感じるりばちゃんの劣等感もあるから、もっとわかりやすく出してもよかったんじゃないかなと思った。

次に、主人公たちの性格や関係性が別物になってしまっていたこと。「スタンド・バイ・ミー」の4人は3人になっていた。木本がいないことに関しては、悲しいけど理解できる。でも彼らが「スタンド・バイ・ミー」じゃなかったから、リバー・フェニックスの名が出てきてむしろ驚いた。“河”田だから、“りばちゃん”だから、という理由で片づけられる範囲だけど、唐突でちょっと面白かった。

サリーとごっちの関係をただの三角関係の一要素にされたのは嫌だった。ごっちが全然サリーのこと好きじゃない。「サリーのこと大事にしてやって」って言われても、それまでのごっちの行動から全く説得力がないのだ。結局サリーとりばちゃんが付き合うのも、りばちゃんにサリーという逃げ場が見えて悲しかった。サリーはダメになっていくりばちゃんを受け入れるような子じゃない。でも映画のサリーはどこまでも普通の子で、それはきっと後半との対比のためなのかな(そういう意味ではサリーが普通の子なのはとてもよかった)と思う。監督が描きたかったのは後半の世界だから。ごっちのお姉さんへの想いを安い恋愛感情にされたのも嫌だったんだけど、映画は小説と比べて「わかりやすくなっていた」と原作者が言うところはこの辺りなのかな。私は死体を綺麗にする異常性を、それを通して見える2人の(シゲアキ先生曰く)「屈折したピュアすぎる友情」関係を美しいと思っていたから残念だけど、一般に理解されがたい感情ではあると思う。映画は商業である以上大衆に共感されるよう作らねばならないから、「わかりやすく」したのは当然なんだろう。ただ、原作の白木蓮吾が隠したかった人間味というか、、ごっちは最期まで白木蓮吾でいたくて、またそうでなくてはならなくて、(もしかしたらお姉さんが役のまま亡くなったからなのかもしれない。だとしたら尚更)映画のりばちゃんが手を入れない“美しくない”死や、死して尚見える汚さは、原作の白木蓮吾(並びに加藤シゲアキ)が見せたくなかった部分なんじゃないかと思うので複雑なところ。

そして何より、主人公二人について。文化祭のバンドではごっちがボーカル化している(少なくともそう見える)し、仕事を始めるきっかけとなった代理の撮影の時から差をつけられているし、ごっちがりばちゃんの背中を見ている描写が一度もない。それ故にごっちがりばちゃんを好きなのかわからず「りばちゃんみたいな奴が必要」というセリフに違和を感じる。成瀬がりばちゃんに「そもそも彼(ごっち)はお前のこと何とも思ってない」って言うシーンがあるけど、それが本当のことに聞こえてしまう。お互いを好きで好きでリスペクトして、お互いに同じ場所に立ちたくて、みたいな部分が抜けていたせいで、ごっちはちょっと上から目線の嫌な奴、りばちゃんは努力しないヤりたいだけのクズになってしまった。後半、ごっちが死んでいるにも関わらずサリーから「ごっちにもらった仕事」と言われてりばちゃんがキレるけど、それは確かにその通りでりばちゃんは自力で何もしていない。これはもしかしたら監督が言うりばちゃんの「IQを下げた」結果なのかもしれないし、映画のストーリー的にそういうキャラ設定の方が面白いのかもしれないけど、死体を発見させたり遺書選びを託したりするほどの関係性には思えなかった。くっついて離れてまたくっついての展開が速すぎるからかな?261ページを2時間でも駆け足なのに1時間でやってるからそりゃそうか。

行定さんはあまりこの小説の2人を好きでないのかもしれないなぁとぼんやり思っていたのは当たらずとも遠からずといった感じで、批判的(と言うと語弊があるけど)な部分があるのは間違いないと思う。小説は芸能界の汚い部分にあまり触れないから綺麗な印象で、対して監督は現実を突きつけたかったんだなと思った。監督が伝えたかったことはあくまで後半で、原作の内容と重なっている前半部分にはない。あえて悪意のある言い方をすると、原作は監督が言いたいことを言うために「利用された」んだと思う。メダカもオニアンコウも、あの小説を『ピンクとグレー』たらしめる要素の大部分をカットしていて、同化するエンディングじゃないし少々難しい話だから仕方ないんだろうけど、やっぱり『ピンクとグレー』である必要はなかったんじゃないかと思ってしまう。6通の中から違う遺書を選んだifストーリーだと言われても。そもそも用意されていた遺書が違うこともある。自伝を書いてくれなんて原作のごっちは言わないし、りばちゃんもそれをテレビでぺらぺら喋ったりしない。その自伝が『ピンクとグレー』(著:河鳥大)として出版、映画化されたということにもいろいろ思うことはあるが、これは後述することにする。

 

ところでこれはどうでもいい話なんだけど、ベッドシーンは必要だったんだろうか。事後からでもよかった気がするし、監督の「裕翔像を壊してやりたい」というエゴも含まれてるのかもしれない。行定さんに限らず映画監督ってそういうところあるよね。常にクリエイティブな挑戦を求められる職業だから、それがいいとか悪いとかじゃなくて。

 

これは私の一観賞者としての解釈にすぎないけど、りばちゃんはきっと、ごっちと友達でいたかったんだと思う。友達だからごっちの死を理解したくて、同化しようとしていたわけで。同窓会の後、ごっちからの電話で走って行くりばちゃんとか、笑顔でシャンパンを持ってごっちのマンションに帰るシーンとかからそう感じたんだけど、関西弁もその象徴なのかな。関西弁が出るのは、高校生(仕事が本格化して差がつく頃)までと再開して2人で飲んだ後、そしてラストシーンで柳楽ごっちと対峙した時くらい。私は大学進学で地元を離れたんですけど、隣県とは言え結構言葉が違ったんです。最初は気をつけて喋ってたのに段々「何それ」「何て?」って聞かれることが増えて、途中で諦めて普通に喋ることにしたんだけど、相手と仲良いほどポロっと出ちゃったりするじゃないですか。そういうことかなって。映画は“決別”がテーマであることに間違いはないんだけど、監督自身が「友情の話であることは守らなきゃいけない」と思ったと語っていたように、2人の友情をそういう点で見せたのかなと思う。

 

“62分後”から世界はグレーへと一変することでいろんな解釈があるけど、私なりの答えを出すべく考えてみた。多分、正解はない。考える余地の多いところがこの作品の面白さだと思うし、そのために「謎を謎のまま残し」たんだと思う。だから、あくまで私の考えた答え。

あのモノクロの世界の中で色づいているのは柳楽くん演じる本物のごっちだけ。このごっちは当然生きているわけでもなければ幽霊でもない、りばちゃんの頭の中に居住するごっちであるということが前提。映画の前半、劇中劇はフルカラーであったことを合わせて考えると、“虚構”の部分には色が付いているんじゃないかなと思った。あの世界の中の誰かが生み出した作り物にだけ、色がある。ラストシーン、ごっちと対峙したりばちゃんが「全然わからへんかったわ、お前のこと」って泣くと、ごっちが「それでいい」って、自分も姉貴にはなれなかった、誰にもわかるはずないって繰り返し言うんですよね。りばちゃんはその前に事務所の社長に対して自ら「俺とごっちは違う」って言って「お前とあいつは全然違うよ」って皮肉のように返されるんですけど、恐らくその辺りで自分がごっちにはなれないことを自覚していて、それがずっと胸にひっかかっていたんだと思います。監督曰く遺書を選ばせた時点でごっちから「俺のストーリーの中に組み込まれろって呪いをかけ」られていたから。そこで、自分が生み出したごっちの幻影と対話する。りばちゃんは、ごっちに許してほしかったんじゃないかなと思います。同化できなかったことを。抱きしめられて「ごめん、」と言われた瞬間じんわりと色が広がっていくのは、“呪い”からの解放を意味しているんだと思う。この解釈だと許されたこと自体が虚構ってことになるけど、それでいいんじゃないかなと思っていて。ずっと「それでいいんだ」って言ってほしかったりばちゃんが、頭の中のごっちにそれを言わせることで、誰にもなれない自分自身を受け入れたんじゃないかなって。最後のデュポンを投げ捨てるシーン、あれは正しく蓮吾との、そして蓮吾になろうとする「しょーもな」い自分との決別で、その歩道橋から見える広告のRENGO SHIRAKIの文字、GOだけ赤くなってるんですよね。だから映画には出てこないけど「その先へ」行けたんじゃないかな。りばちゃんもごっちも。

 

実は1回目を観終わった時、もう二度と観たくない、観られないと思った。映画の内容とは無関係なところで3回泣いた。私の知ってるごっちじゃないし、私の知ってるりばちゃんじゃないし、私の知ってるサリーじゃない。もしかしたら私の読み方が間違っていたのかなと思ったし、シゲアキさんがあれでOK出したのかと思うと、少し突き放された気持ちにすらなった。どう書かれているか気になるから原作も読みたいと言ってくれるのはとてもうれしいし、それで本が売れるならそれほどありがたいことはないけど、映画しか観てない人にあれを加藤シゲアキが書いた世界だと思われるのは嫌だと思ってた。そんな私が2回目を観に行くに至った理由は母が行きたがったから以外の何でもないんだけど、観てよかったと思う。

1回目と2回目の間に、スピンオフ作品『だいじなもの』を読んだ。先の『ピンクとグレー』(著:河鳥大)の件に話は戻るけど、最初に観たときそれがすごく嫌で嫌で、シゲが身を削って書いたものをそんなメタフィクションに利用されるなんてと思った。だから『だいじなもの』を読んだ時、ショックだった。原作の世界の中でも『ピンクとグレー』が河鳥大が書いたものになっていたから。私は自担に甘い。そんなこと言われたらそうとして受け入れるしかない。嫌でも、無理でもそれが正解なんだから仕方ない。だけど若干の悲しみを引きずりつつ先に進んで行くと、映画の世界との決定的な違いがあった。映画化された河鳥大の『ピンクとグレー』に木本が存在していたこと。その一文だけで、映画を観た時からもやもやしていた私の気持ちは一気に晴れた。シゲ自身が映画を観た後に書いた作品で、映画と原作は違うことがはっきりわかるようにメタフィクション返しされている。何度言葉で言われても受け止められなかった差異が一瞬にしてキャッチャーミットにすっぽり収まった。もう一度言う、私は自担に甘い。その後観た2回目ですっと許容でき(る部分が増え)たのだ。醤油を注ぐ以外の使い道がない豆皿程度だった受け皿が、カレー皿になった感じ。ダメだ、上手い比喩が浮かばなくて逆にわかりづらい。阿呆が露呈する。

「そのままやっても原作に勝てない」を連呼する監督に「勝手に何の勝負してんだお前は!!」と苛立ったこともあったし、監督(というより脚本か)は違う人がよかったなーとか思っていたこともあったが、映画監督として原作超えを目指すのは当然だろうし、他の人が撮る計画が何度も頓挫したことを考えると、あの方法も正解の一つなんだろうなと思えるようになった。

 

 

ちなみに同日に放送開始した『傘をもたない蟻たちは』の感想ですが、わりと忠実に上手いこと3作を繋げていたしあまり(いい意味で)頭を使わず楽しめたので特筆するようなことはありませんが、強いて言うなら「はまぐりぐりぐりうちわ作りてぇ~~~!!」以上です。

 

*1:観賞後彼をそう表現していたら共演者からも言われていたらしくて笑った。っょぃ。